日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 80号

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「堪忍袋の緒を切るな―キリスト教の立場」

―  詩編40編2~5節、マタイによる福音書13章24~30 ―

東京神学大学特任教授 棚村重行

 今朝の礼拝説教の主題は、皆さんが時々耳にする諺、「堪忍袋の緒が切れた」から取られたものです。現代の若い方々なら、「我慢はしたが、最後はブチ切れた」とでも言い換えられる諺でしょう。しかし、今は多くの方は「堪忍袋」は持たないでしょう。だが、ストレスや悩みはたまるばかり。となると膨らむばかりの愚痴やストレスを現代人はどう解決するのでしょうか。キリスト教信仰者だって「堪忍袋」が必要な切れそうな時があるはずです。「ならぬ堪忍、するが堪忍」ともいわれます。これが難しい。そんな時、私たちは旧新約聖書からどう神様の語りかけを聞き取り、姿勢を立て直せるのでしょうか。

(二)

最初に、誰でも、幼い頃の最初のものすごい恐ろしい体験を覚えているものです。私が二、三歳ころ、ある町で数人の小学生と遊んでいた時、ふざけて池に落ちたことがあります。水面の上に顔を上げたり、沈んだりしてアップアップした記憶が今でも脳裏に浮かびます。年上の子らが幸いロープを池に投げ込んでくれました。それにつかまって岸に引っ張り上げられました。母に叱られて身体を拭いてもらった覚えがあります。それ以来、水がからむ運動は恐ろしく、「金づち」人生となりました。私のトラウマ第一号です。

この悪夢の真の解決は、受洗後出会った今朝の旧約聖書、詩編40:2~5が救いとなりました。「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びをきいてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。…」。これをダビデ王は厳しい敵との戦闘のなかで詠ったのでしょう。「主にのみ、望みをおいて」、人の目には絶望的な戦いの泥沼から、ただ神の御力で敵に勝利する道を味わったのでしょう。だから、私の溺れ体験も「神のみが救いの綱」という信仰に導く神の贈りものだったと気づきました。聖書からの恵み第一号でした。

(三)

次に恵み第二号の話をしましょう。私は1967年に大学に入学しました。大学紛争の真っただ中で、入学後すぐベトナム戦争と資本主義体制との癒着に反対する過激派の学生らが、大学の本館その他を封鎖しました。このため半年間、授業なき私は学びの場を失い、一先輩の導きで教会の門をたたき受洗しました。その間礼拝・聖書研究会で神の言葉の信仰の糧を頂戴しました。

ある時、マタイ福音書13:24~30、「毒麦のたとえ」に出会いました。こうあります、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を撒いて行った。芽が出て、

実ってみると、毒麦も現れた。僕しもべたちが主人のところに来て言った。『だんなさま、…どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った」。人間たちが熟睡している間に、神に逆らう「敵」が暗躍し、悪の種、毒麦の種を人と世界に蒔いて立ち去ったというのです。ということは、敵の姿は神と主イエスだけが知っておられ、人間は眠りこけ、悪の正体を知ることはできないということです。人間理性の悲しい限界と、信仰の謙遜の必要を教えられました。

私はこの聖書の見方が、どんな理論よりも、人と世界の内に潜む「悪の勢力」の不気味さを教えていると感じます。だからこそ、主はあの譬えで、「毒麦が世界にあるのは人知を越えた敵の仕業だ」と諭されたのです。現代もそうです。「宗教は民衆のアヘンだ」と呼んだ過激派運動は「赤軍派事件」等が象徴するように、恐るべき「敵」なる力と人の内に宿る罪の力が作用して、凄惨なリンチと内部分裂に陥り、自己崩壊していきました。

続いて、マタイ福音書13:28~30に注目しましょう。「主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、…』」。この後半の要点は、主人なる方が畑なる世界と教会にさえ深く浸透する反キリストの敵対勢力の浸透力を見抜き警戒していることです。だから29節で主人は戒めます、「良い麦と悪い麦の根は地下で絡み合っている。今は無理にひっこ抜くな」です。じゃあ、いつお分けになるんですかといえば、「神が終わりに善と悪を裁く。その時にこそ、神が最終的に『敵』に勝利し、良い麦は倉へ、毒麦は火の中へ投げ込まれるから。それ迄忍べ」と!

皆さん、聖書の歴史の見方はなんて深いものでしょう。私は「宗教はアヘンだ」と左翼からなじられました。ところが、二十世紀の終わりまでに、巨大な社会主義圏が資本主義圏よりも早く瓦解したのです。「社会主義こそ東側人民のアヘン」だったからでしょう。逆に資本主義も奢ってはいけません。これも毒麦と化せば、神の裁きを避けられない。だから今後も「堪忍袋の緒を切らず」真の神の審判を待ち続ける忍耐の信仰を、この「譬え」から学ぶのです。

(四)

最後に、第三の恵みの聖句に支えられた話をします。その後、私は教団の牧師となり神学校で教えましたが、五十代後半に目の病気で手術を受け、十日間昼も夜も下を向いて生活しました。これには参りました。「堪忍袋の緒を切りたく」なりました。ある夜、不思議な幻が与えられました。マタイ福音書2:10~11の情景です。「学者たちは…家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、…贈物として献げた」。私は悟りました、「三人の博士もひれ伏しイエス様を礼拝している。そう、この私に神様は、『彼らと一緒に主イエスを礼拝せよ』と命じられるのだ」と。すると苦しみの意味が分かり、安心の眠りに落ちていきました。無事退院の日を迎えました。

(五)

私の人生も皆様と同じく「堪忍袋の緒が切れる、いや切りたい」誘惑との戦いでした。それがキリスト者とされ、み言葉で造り変えられたのです、「ならぬ堪忍、神の言葉でするが堪忍」でした。皆様がこの高井戸教会で今後も聖書のみ言葉に聞き、聖礼典に与り、「堪忍袋の緒を切らぬ」人生を歩まれれば幸いです。

(2018年2月18日特別伝道礼拝説教)