日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 77号

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「あなたの道を主にまかせよ」

― 詩編 第37編 ―

牧師 七條真明

主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを
真昼の光のように輝かせてくださる。      (詩編37:4~6)

詩編第37編は、この世にあって神を信じる信仰に生きるということが、一体何を指針として生きることなのかを巡って歌っている詩編です。

この詩編において、最初の部分、1節から8節までのところには、命令の形で語られる言葉がいくつも重ねられるようにして出てきます。まず冒頭の1節を見ると、このように語られます。「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな」。また、7節から8節においては、こう語られます。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」。

この詩編は、私たちに、私たちが共に生きるべき指針を与えようとします。それは、この世にあって信仰に生きる時、私たちの心のうちに絶えず湧き上がってくる一つの 問いがあるからです。

神を信じないで生きる者たちが、自分たちよりも案外うまく生きていたりする。神を頼らず、自分の力で、自分のやり方で、自分の思いのままに生きる者たちが、成功し、繁栄している。そのような現実を目の当たりにする中で、信仰に生きる者たちの心のうちに、やりきれない思い、いら立ち、憤り、そういう思いが湧き起こってくる。そして、神を信じて何になるのか、そのような問いを持ち始めることが起こる。この世にあって信仰に生きる者たちが直面する困難を、この詩編を歌う詩人はよく知っているのです。

しかし、詩人は、その問いにはっきりと否を突きつけるようにして、信仰に生きる者たちに語りかけます。「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。」「繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。」「自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」のだ、と。

そして、この詩編を歌う詩人は、この世におけるそのような道とは違う、もう一つの道を行くようにと、信仰に生きる者たちを招くのです。それは、3節から5節までにおいて語られている道です。「主に信頼し、

善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ」。

自分の力に依り頼み、自分の思いのままに生きようとする者たちがうまくこの世を生きている姿を見て、心が揺さぶられる時、そのようにして生きるところにこそ現実的な道があるような思いにどこかで捕らえられている私たちがいるのではないでしょうか。しかし、この詩編第37編の御言葉は、「その捕らわれから解き放たれて、主を信頼する道に生きるように!主の御力に自らをゆだねて生き続けるように!そこにこそあなたがたの行くべき確かな道がある!」と、繰り返して私たちの進むべき道を指し示そうとするのです。

神に逆らい、神などいないかのように振る舞う生き方がどれほどうまく行くように見え、繁栄をもたらすもののように見えても、それは決して永続するものではなく、そのような生き方が祝福のうちに残り続けることはない。この詩編は、そのことをはっきりと語ってやみません。

信仰とは何でしょうか。信仰に生きるとはどういうことでしょうか。それは、安全地帯においてだけ神を信じて生きようとすることではない。すべてがうまく行っているような時だけそこに生きるということではない。むしろ、災いが降りかかるようなところでも、苦しみ悩まずにはおれないところでも、「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれる」。そのような望みに生きることなのだ、と。そこに信仰がある。そこでこそ信仰に生きるということが意味を持つ。詩編第37編を歌う詩人は、この世の現実の中で信仰に生き続けることの困難を自らもよく知りつつ、そこでなお、いやそこでこそ、何に望みを置いて歩むのかを、この詩編を読む私たちの肩をつかむようにして問いかけながら、信仰に生きるように、と励ますのです。「主に自らをゆだねよ」「あなたの道を主にまかせよ」「信頼せよ」、と。

自らのすべてを主にゆだねて生きる。自分の力によってというのではなく、自分の思いのままにというのでもなく、神に信頼し、神の御力にこそ自らをゆだねて生きる。それは、私たちの周囲にいる多くの人たちに理解してもらえる生き方というのでは必ずしもないかもしれません。私がかつて会社員でありました時に、私がキリスト者であることを知っている同じ職場の後輩から、「信仰なんて弱い人間のためのものですよ」と面と向かって言われたことを思い返します。この世において信仰に生きる時、そのようなこともまた経験することを改めて思います。

しかし、詩編を含む聖書全巻が指し示すイエス・キリストによる救いを宣べ伝えた使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の第12章において、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」との主の御言葉を聞き、「わたしは弱いときにこそ強い」と語ることができた真実を思います。神に身をゆだねる者の強さです。自分自身の強さではありません。自分自身は弱い者に過ぎないかもしれないけれども、神に信頼して生きる。神の強さの中に生きるということです。

東日本大震災が起こった時、東北におられて、被災した多くの教会に関わる責任を担っておられた一人の牧師が、かつて口にされた言葉を思い起こします。「被災地では、なお悲しみが続いている。教会に生きる者たちもやっとの思いで立っている。しかし、やっと立っているところで、支えられていることを知る。私たちを救い、今もお支えくださる主を知っているから生きることができる」。明るい希望というようなものとは違うかもしれないけれども、確かな希望に生きている人の言葉だと思わされました。

「あなたの道を主にまかせよ」。この詩編が指し示す道を行く。その中でこそ見えてくる確かな望みのうちに共に歩みたいと願います。