日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 74 号

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「 キリストの味方 」
― マルコによる福音書 9章38~41節 ―

牧師 七條真明

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 (マルコによる福音書9:38~41)

主イエスの弟子の一人であるヨハネが、ある出来事を主イエスに報告しました。主イエスのお名前を使って悪霊を追い出している者を見かけた。主イエスに従う者として私たちと一緒に来るようにと言ったけれども、従ってこないので、その行為をやめさせようとした。ヨハネが報告したのは、そのような出来事です。 古今東西、偉大な人物の名前を語って病気を治したりする行為がしばしば行われてきました。釈迦や孔子やイエス、さまざまな歴史上の偉人とされる人々の名前を並べて加持祈祷を行う。そのような新興宗教の類は現代の日本にも見受けられます。 正統な仏教の関係者であれば、気安くお釈迦様の名前を出してくれるなと言いたくなるところでしょう。キリスト教会にあるわたしたちも同じように、主イエスのお名前を都合よく利用しないでほしいと言いたくなるところです。ヨハネが行ったことは、実にもっともなことだとわたしたちにも思えるのではないでしょうか。

しかし、主イエスはヨハネに思いもよら ないことを言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。主イエスに従わないまま、主の御名を口にする者の、その行為をやめさせる必要はないと、主イエスご自身が言われるのです。

もちろん、主イエスは、主の弟子として歩もうとしないのに、イエスの御名を口にする者のあり方がそれで正しいと言われたのではありません。また、主の弟子たちの中で、キリスト教会という弟子たちの群れの中で、主イエス・キリストの御名が誤った理解のもとに用いられてよいと、主イエスが言っておられるのでもないのです。 イエスという御方の御名が、主の弟子たちの群れの外にも伝わっている。教会の外にも知られている。そこで、さまざまに語られていることについて、どう考えるのかということです。ある人は、ヨハネの報告を聞かれた主イエスは、微笑みながらヨハネにお答えになったのではないかと想像しています。そんなに神経質にならず、大きく構えていればよ い。主イエスが、そのようにおっしゃってい るのだと言うのです。

しかし、イエスという御方について、この世において、実にさまざまなことが言われ、また自分勝手とも言える理解のもとに多くの書物が、この日本でも出版されている現実を目にする時、主イエスが言われることに対して、イエスさま、余りにも楽観的、また寛容に過ぎるのではないですかと言いたくなる思いも湧いてくるのです。 ただ、続く40節で、主イエスが、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われているその御言葉に照らして考える時に、教会に生きるわたしたちが、ともすると「敵-味方思考」とでも言うべきものにどれほど簡単に陥っていたりするだろうかと思わされるのです。 敵か味方か。この世において、そういうことが、あからさまな形で、絶えず問題になっている訳でもないでしょう。しかし、密かな形ではあっても、わたしたちが生きる世界にはどれほど「敵-味方思考」に基づくものが溢れ返っていることでしょうか。国と国との間に、民族と民族との間に、あるいはそのような大きな事柄においてではなくても、私たちの日々の生活における人間関係の中に「敵-味方思考」がどれほど入り込んでいるか。あの人は自分のことをどう思っているのか、どう評価しているのか。誰が自分の敵であり、味方であるのか。無意識のうちにも、そのような「敵-味方思考」の中で、自分の考えや立場、自分が自分であることをどれほど守ろうとしている私たちであるかを思わずにはおれません。

主イエスは、そのような思考に囚われているところからわたしたちを解き放とうとなさるのです。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。全面的に同調して、わたしたちに従ってくるのではないかもしれない。しかし、わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方。今、主イエスを信じて歩んでいるのではなくても、教会の味方である人々がいる。キリストの味方、わたしたちの味方だという人々がいるのだ、と主イエスは言われるのです。 主イエスご自身が、わたしたちがしばしば陥る「敵-味方思考」を越えて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5:44)とお命じになった方であることを思います。そして、そのようにお命じになる主イエスは、パウロのように、もともとは教会を迫害してやまなかった者、キリストの敵であった者さえも、ご自分のためのこれ以上はない働き手となさいました。敵を味方にさえ変えてしまわれる御方なのです。そして、パウロの身に起こったことは、実は教会に生きる者たち皆に起こったことです。パウロが、こう書いているとおりです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。・・・敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマの信徒への手紙5:8、10)。

「敵であったときでさえ」。わたしたちも、神に背を向けて、キリストの敵として生きていた。そのようなことさえ思っていなかった自分たちの姿に、主イエス・キリストの十字架の愛に直面して、わたしたちは気づかされたのです。ご自分の敵の中にさえ、味方になる者を見出してくださる。主の愛の眼差しはそのような眼差しです。 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。その人自身がまだ主に従う弟子とはなっていなくても、大きな神のご計画の中で、神に覚えられている人たちがどれほど多くいることでしょうか。主の教会に生きるわたしたちは、その人々へ福音を届ける使命を与えられています。