日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 72号

教会だより

「 人生を深く豊かに生きる 」
― イザヤ書43章1~7節、ルカによる福音書5章1~11節 ―

日本基督教団秋田桜教会牧師

巻頭説教(特別伝道礼拝) 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。    (マルコによる福音書14:21)

 私たちは、日々いろいろな言葉を耳にします。しかし、そこでしか聞けない言葉というものがあります。 聖書の言葉、主イエスのお言葉がそうです。教会で、礼拝で、信仰の友との語らいの中で聞く言葉。 そこでしか聞けない、大きな恵みの言葉です。

その日も、その恵みの言葉を求めて、湖のほとりにおられた主イエスのもとに、多くの人が集まってきました。 主イエスは、舟に乗り込まれ、舟の上から、群衆に向かってお話しなさいました。 多くの人が、一生懸命に聞き入ったと思います。真実の言葉を求めていたからです。 けれども、真実の言葉に接しながら、なかなかそのことに気が付かないということもあります。 その場にいた漁師たちがそうでした。主イエスが自分たちの舟に乗ってお話をなさった。 主イエスがすぐそばで話されるのを、漁師たちは聞いたのです。

しかし、漁師たちは、自分に対しての恵みの言葉だとは受け止めていませんでした。 主イエスは、漁師たちに、「沖に漕ぎ出し て網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。 漁師は、魚を取るのが仕事です。 プロです。一晩中頑張ったけれども魚は取れなかった。 「我々はプロです。こんな時間に網を降ろしても魚は取れません」。

そう言って当然です。けれども、漁師の一人シモン、後のペトロですが、 彼は「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言った。 ここで、大転換が起こったのです。 「やっても無駄だ」と考えて当然でした。 けれども、ペトロは、「よし、お言葉どおりやってみよう」と、沖へと漕ぎ出して行ったのです。

その結果は、網が破れそうになるほどの大漁であった。 主イエスを通しての神の恵みでありました。 ペトロは、神の恵みの大きさ、重さに圧倒され、これは神のお働きだとはっきりと受け止めたのです。

圧倒的な神の恵みに触れる時、人は変えられます。そのことがここに起こったのです。 その恵みに応えようとするペトロは、主イエスの前にひれ伏し、「わたしは罪深い者なのです」と言わずにはおれませんでした。 神の真実、恵みの大きさの前に立った時、自分の弱さ、ずるさ、醜さ、 それらが心の中に湧き上がって来て、自分でもそれを処理できない、その罪を告白し、祈った。

昨年10月、秋田のある看護学校で講演をする機会がありました。 副校長先生からは、「夏に学生の一人が自死をし、学生の間に動揺が広がっている。 講演の最初にお祈りをしてほしい」と言われました。 詩編23編を読み、勧めの言葉を語り、お祈りをしました。 学生たちは、何人もが涙を流しながら、その祈りの言葉に応えてくれました。

今、私たちが生きることにおいて、祈りが必要だとの思いを多くの人が持っているように思います。 祈りが求められている。教会は、祈りを捧げる場として、求められている。そのことを思わされます。 ペトロは、多くの魚が取れて、これはもう神の恵みだと思わずにはおれなかった。 その時、自分の罪深さ、弱さ、不信仰といったものが一気に自分の内に湧いてきて、 ペトロは、主イエスの前にひれ伏し、罪の赦しを願わずにはおれなくなったのです。

キリスト教信仰においては、そういう罪の深みと言うべきものが見つめられ、そこに光があてられること、それが救いなのです。 昨年は6月にも、秋田県看護協会の総会で講演をしたのですが、講演を聞かれた看護師の方がご主人と礼拝に集われるようになり、 クリスマスにご夫妻で洗礼を受けました。 その看護師の方が、洗礼を受ける前に、祈祷会でお祈りをなさり、その祈りに皆が心を打たれた。 そういうことがありました。職場でのある出来事において自分の心の内に生じた思いに、自分で自分が赦せなかった。

自分はなんと罪深い人間かを思わされ、心から悔いた。その看護師の方は、そのことを涙ながらに祈ったのです。 祈祷会に出ていた教会員たちも、みんな涙を流ながら、「どうぞ神さま、私たちの罪を赦してください」との祈りを捧げたのでした。 私たちの罪を本当に赦すことができるのは、ただお一人、主イエス・キリストのみです。 私たちは、何か悪いことをするから罪人なのではありません。

罪人だから、神のお心に背くことばかりしてしまうのです。神に対する罪こそ赦していただかなければならない。 けれども、私たちはいつだって最後は自己保身、自己中心へと陥り、自分の考え方の中に閉じこもってしまいます。 そこに、イエス・キリストをお迎えしなければなりません。 小さな人生、自分の計画の中で、自分が小さな王さまになって威張っていてはなりません。 そこに主イエスをお迎えして、自分の罪を赦していただき、主イエスが「沖へ漕ぎ出しなさい」 と言われるその方向へと進み行き、「網を降ろしなさい」との求めに従って網を降ろすのです。

「沖」という言葉は「深み」を意味する言葉です。「深みへと漕ぎ出しなさい」。 人生の深みへと乗り出す。私たちには誰もが触れてほしくない闇の部分があります。 そこに主イエスをお迎えする。主イエスに従う生き方をするならば、過去は変えられなくても、過去の意味が変わります。

あんなことがあったから自分の人生はこんな人生でもう本当に嫌だと思う人生が、 あれがあったから今の私があって主イエスと共に歩むことができる、そういう人生に変わるのです。 私たち一人ひとりが、そのような人生の深みへと乗り出して行く。

主イエスをお乗せして、主の御言葉に従って歩むのです。聖書は告げます。 通常では考えられない大漁、多くの魚が与えられる。それが私たちの人生に起こるのです。 主イエスのお言葉に従い、神の恵みをたくさんいただいて生きる。その人生へと、ここから共に歩み出してまいりたいと思います。