日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 71号

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「 聖書に書いてあるとおり 」
― エレミヤ書11章18~20節、マルコによる福音書14章12~21節 ―

東京神学大学教授  大住雄一

巻頭説教(伝道礼拝) 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。    (マルコによる福音書14:21)  私たちは、神のみ心をどこで、どのようにして知るのでしょうか。神の独り子なる 主イエスは、み心はどこにあるとおおせになるのでしょうか。

主は去って行かねばならない。それは、主イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活するということです(マルコ8:31)

このことを、弟子たちは受け入れることができませんでした。 しかしペトロが、このみ心をお話しになった主イエスを諌めて、主から激しく叱責されたように、それは変えることのできないみ心だったのです。 今去って行かれるにあたって、主はこのみ心が「聖書に書いてある」とおおせになります。主にあっての聖書は、私たちの「旧約聖書」です。

しかし、旧約聖書のどこに、主は去って行くと書いてあるでしょう。 主イエスが人々の手に渡され、殺されること、それが私たちの救いのために、どうしても必要なことだったということは、旧約のどこに書いてあるのでしょう。 多くの人の心に浮かぶのは、イザヤ書53章の「苦難の僕」と呼ばれる箇所です。 実際主の弟子たちは、そこに主イエスの御わざが預言されているのを見ました(ルカ22:37、使8:32-33、ペトロ一2:22)。

ただ主イエスご自身、神の独り子は神がそのぶどう畑を委ねた農夫たちに殺されるけれども、それこそ神のみ心なのだとお示しになったとき、こうおおせになりました。 「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」(マルコ12:10-11)。詩編118編にも主のみ心が書かれているわけです。

さて、そのとき周りにいた祭司長、律法学者、長老たちは、「自分たちに当てつけ てこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた」とされています(マルコ12:12)。 それで、主イエスを「聖書に書いてあるとおりに」殺すためには、主イエスをうまく引き渡す裏切り者を必要としました。

この裏切りを実行したのが主に選ばれた弟子の一人であったことは、私たちの躓きです。「だが人の子を裏切るその者は不幸だ。 生まれなかった方が、その者のためによかった。」主イエスは、そうおおせになります。 でも主よ、それはないでしょう。 太宰治の「駆け込み訴え」ではありませんが、主イエスが裏切られ、十字架にかけられて死ぬということが神の御心だとして、それが実現するのに一役買ったのがユダです。 その彼は滅びに定められ、「生まれなかった方がよかった」とまで言われる。神はご存知だったのではないでしょうか。それなのに生まれさせたのでしょうか。

それがみ心だとすれば、あまりにも不可解です。しかし、ユダについて聖書は言います。「十二人のうちの一人」。わたしと同じ者が主を裏切った。 福音書はそう言います。十二人のうちから裏切り者が出ることは、主の御意志のうちにありました。 しかしこのユダが裏切ることになるとは、神ご自身にも想定外だったと言うべきです。ほんとうは誰でも裏切り者になり得た。主イエスと共に鉢にパンを浸している彼が(詩 41:10)、つまり、いちばん主の近くにいたユダが、自分の意志で裏切り者の代表になってしまいました。

さて、場所は過ぎ越しの食事です。その会場を備えて待っていた人がありました。 主のエルサレム入場のときにろばを貸してくれた家も、主がおいでになるのを知っていたわけです。 主イエスがエルサレムにおいでになる前に予め連絡を受けて、主のなさることの準備をする「シンパ」がいたのだと想像する学者もいます。

しかし、彼らは天使であったかもしれません。いずれにせよ神のみ心は、み心である以上、それが実行されるためには神ご自身の備えがあるものです。 私たちの伝道もそうです。開拓伝道と威張ってみても、実はそこに既に神ご自身が行っておられ、ここまで来いと呼びかけて下さいます。 私たちが参与させて頂く伝道も、「書いてあるとおり」進行します。

それならなぜ、弟子たちは裏切ったのでしょうか。主のみ心は、自分たちの考えていることと違う。とくにユダは恐れていました。 このまま放っておいたら、自分の思っていることが実現しないどころか、自分たちも主イエスと共に殺される。 つまり、書いてあるとおりのみ心というものを受け入れられなかったのだと言うべきです。 他の弟子たちも、結局主について行くことができませんでした。弟子たちは皆裏切り者になった。

それなのに、なぜ他の弟子たちは救われたか。裏切る我々をも救う主のみ心に委ねられた者であり続けた。 裏切り者をも救う主のみ心を拒否してしまったら、主のみ心によって救われる者にならない。 しかし彼らは主について行けなくても、主が救い主であること、裏切り者をも救う方であることは拒否しなかった。 そこが分かれ目でした。そのためにこそ、書いてあることが実現せねばならなかったのです。

私たちは聖餐式を守りますが、それは、私たちの裏切りが露わになる場面です。 しかし、その裏切る私たちを救うために、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」とおおせになります。 私たちの裏切りも、「書いてある」主のみ心を妨げることはできないのです。

(2015年10月18日秋の伝道礼拝説教より)