日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 70号

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「 荒れ野のキリスト 」
― マルコによる福音書 1章12~13節 ―

牧師 七條 真明

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこに とどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、 天使たちが仕えていた。(マルコによる福音書1:12~13)

 ここには、主イエスが荒れ野で四十日間を過ごされ、そこでサタンから誘惑を受けられたという出来事が記されています。 聖書に「サタン」や「誘惑」という言葉が出て来る時、それらを分かり切ったもののように語ることはできません。 ただ、恐らくこのようには言うことができるでしょう。それは、私たちを神から、神の御心から引き離そうとするものだということです。 マルチン・ルターが誘惑について記した次のような言葉があります。「頭の上を誘惑の鳥が飛び回ることは、だれにも避けることができない。 しかし、その誘惑の鳥が、髪の毛の中に巣を作ってしまうのを防ぐことはできる」。 私たちに迫る誘惑というものを、鳥の姿にたとえて語る、ルターらしい、とても印象深い言葉だと思います。

けれども、ふとこんな思いも湧いてくるのです。私たちは、誘惑の鳥が私たちの髪 の毛の中に巣を作ってしまうことを防ぐことができる。そう語るルターの言葉は、本当に正しいと言えるのだろうか、と。 私たち人間は、どんなに誘惑に弱いかを思うのです。命を枯渇させる荒れ野のような世界の中で、さまざまな誘惑が私たちに迫る。 気付かぬ間に、誘惑の鳥が頭の中に巣を作ってしまう。そういう経験を私たちは何度もするのではないか。 ルターは、そういう人間の現実をよく分かっていたと言えるのだろうかということです。 この福音書を書いたマルコはどうだったのでしょうか。

ここには、マタイ福音書やルカ福音書のように、サタンが主イエスに語りかけた言葉も、 主イエスがどのように誘惑を退けられたのかということも記されません。 荒れ野で主イエスが誘惑を受けられた、その事実だけを書いているとも言えます。 マルコもまた、誘惑の力にしばしば脅かされる私たち人間の現実を分かっているのだろうか。 実にあっさりと書いているようにも思えるマルコ福音書の書き方に、そのような思いもまた湧いてくるのです。 しかし、もう一度立ち止まって、よく考えてみる時、むしろ全く逆なのではないかと思われてきます。 細かく記さないことで、かえって、神の独り子が人となられてサタンから誘惑を受けられたという事実を際立たせているのではないかということです。 改めて12節を見てみます。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」。

「それから」とあります。主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けられた出来事の直前には、 主イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられた出来事が記されていました。 本来であれば、悔い改めの洗礼など受ける必要がなかった罪なき神の御子キリストが、 私たちと同じ人間になられた御方として、罪人である私たちの中に深く深く入って来てくださった出来事です。

この出来事を受けて、「それから」と語られるのです。 主イエスが私たち罪人である人間の中に深く入って来られた時、まずどこに導かれたのかというと、荒れ野であった。 主イエスが、自ら荒れ野に行かれたとは記されません。「“霊”がイエスを荒れ野に送り出した」と記されるのです。 神の霊が、主イエスを荒れ野へと送り出す。

つまり、私たち罪人たちの中に深く入って来てくださった主イエスが、まず荒れ野に行かれ、 そこで四十日間を過ごされたのは、神のご意思であったということです。 私たち人間は、荒れ野のような世界に生きています。 しかし、なぜ荒れ野のような世界が広がっているのか。 それは、私たち人間が自らの罪によって作り出している世界が荒れ野のような世界なのだということではないでしょうか。

互いの命を満たし合うような存在として生き得ていない。互いに愛を注ぎ合うような歩みを作ってはいない。 それが私たち人間の作り出している荒れ野のような世界だということです。 けれども、まさにその荒れ野のような世界の中に、御子キリストは入って来られました。

そして、神の御心から私たちを引き離そうとする悪しき誘惑の力を、主イエス・キリスト御自身がその身に受けてくださいました。 私たちが経験する誘惑は、すべて主イエス・キリストがその身に受けてくださった誘惑です。そして、主イエスは、サタンの誘惑には負けなかった。 負けないで、打ち勝ってくださった。荒れ野のような世界の中で、誘惑に弱く、本当にしばしば負けてしまうような私たちのためです。

そして、主イエスの十字架へと向かう道、主イエスの戦いはここから始まりました。 私たち人間を救おうとなさる神の御心が成るための戦いであり、主イエスは、十字架において罪の力、サタンの力に決定的に打ち勝ってくださいました。 「誘惑の鳥が、髪の毛の中に巣を作ってしまうのを防ぐことはできる」と語ったルターは、決して安易な思いで語ってはいなかったことを思います。

主イエス・キリストを信じる者として生きる時、私たちの頭の上をどれほど誘惑の鳥が飛び回っても、決して巣を作ってしまうことはできない。 サタンはもはや私たちを虜にすることはできない。主イエス・キリストが、私たちをご自身のものとしていてくださるから。 ルターの言葉は、そういう確固たる信仰を言い表しているのです。

私たちが出遭うすべての誘惑を知っていてくださり、そのすべてに打ち勝ってくださった主イエス・キリストが、私たちと共にいてくださいます。 だからこそ、私たちは、その主に従って歩むのです。