日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 67号

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「 光の中の歩み 」
― ヨハネによる福音書 8章12~20節 ―

曙教会牧師 左近 深恵子

イエスは再び言われた。 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 それで、ファリサイ派の人々が言った。 「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 イエスは答えて言われた。 「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。 自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。 しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。 なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父も わたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、 イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。 もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。 しかし、だれもイエスを捕らえなかった。 イエスの時がまだ来ていなかったからである

「わたしは世の光である」、主イエスは、エルサレムの神殿で、人々にそう語られました。 神が人を救うために、主イエスを通して光を与えてくださることを、ご自分がその光であることを、示してくださいました。 人は、何らかの光が自分の行く道を照らしてくれることを願います。 しかし神が与えてくださる真の光は、道を照らすだけでなく、その人の全てを照らします。 その人が今どこに居るのか、どのように生きているのか照らし出す神の光は、人に自分自身と向き合うことを促します。

それは多くの場合困難を伴います。しかし、神の命に生きる恵みに気づかされます。 神は闇から人を救い出すために御子を世に与えられ、人に、御子の内に命の光を見出だすことへと、招いておられるのです。 詩編第36編は、自分自身が見えていない者のことを、こう言い表します。 「神への恐れが無い、自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない」。

神の眼差しをおそれを持って受け止めることは、自分を偽ることを捨て、自分自身に目をつむらずにいることと結びつきます。 神の眼差しを受けて、自分自身を見る目が開かれるのです。 神は、進むべき道を見失って闇のような日々の中にある人、自分で自分を見失っている人、 自分が世から失われているように感じている人に、命の光をもたらすために、御子を世の光として与えてくださいました。

予期せぬ困難に見舞われたり、思い通りに行かない日々の中にあっても、たとえ死が持つ力に振り回され、 弱り、打ちのめされるような時でも、神の光の中を歩くことができるのです。 ご自分に「従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と、主は言われるのです。 主イエスが神さまからの光であることは、ヨハネ福音書がその冒頭から記してきたことでした

ヨハネ福音書の冒頭は、御子を言と言い表して、 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:4~5)と記しています。 混沌とした、闇が全てを支配しているかのように見える状況の中で、神は先ず「光あれ」と告げられ、光をお造りになりました。 闇にかき消されない光を与えてくださった上で、天地を創造され、その世界に、人や他のものたちの存在と命を与えてくださいました。

詩編36編においても、「主よ、・・・あなたの光に、わたしたちは光を見る」と、神の光の中で生きる喜びを歌っています。 けれども、神の光の中に命を与えられながら、人はなおも闇に引き寄せられ、闇の中で自分を失ってしまうことを繰り返してきました。 神は、人の中に、世の闇と呼応する闇があることをご存知です。光に憧れながら、実際には光に露わにされることを拒み、 しばしば闇に居心地の良さを覚え、闇に引き寄せられてしまう人の現実をご存知です。 この現実のただ中に新しい光をもたらすことを、神さまは約束してくださいました。

「見ることのできない民の目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すため」に、 「民の契約、諸国の光」をお立てになると、預言者を通して約束されました(イザヤ42:5~9)。 そして御子を世に与えてくださいました。パウロはこう記しています、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、 わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリ4:6)。 旧約聖書の初めから示されてきた光が、人としてお生まれになった御子によってもたらされたのです

「わたしは世の光である」、主はこの言葉を、仮庵の祭りと呼ばれる、ユダヤの民にとって当時最大とも言われた祭りが祝われた際、 祭りの拠点である神殿で告げられました。 この祭りにおいて、神の民イスラエルの歩みをこれまで導き、守ってこられた神さまが、 今も神の民と共におられることを覚えて、多くの火が灯されました。

エルサレム神殿の庭を囲む燭台やかがり火に焚かれた火の明るさは、エルサレム中を照らしたとまで伝えられています。 主が、「わたしこそ、世の光である」と言われたのは、この祭りが最も盛大に祝われていた最中であったのか、 それとも祭りが終わった後であるのか、聖書からは明らかではありません。

聖書が明らかにしているのは、この時ユダヤの民の指導者たちが、主イエスの語る言葉を拒み、主イエスが神から遣わされたことを否定していたということです。仮庵の祭りのまばゆい光が、神殿と都に溢れていたその時、ある人々の内側では、神の光を受け入れようとしない闇が濃さを増していたのです。 もしも主イエスが祭りの最中に「世の光である」と告げられたのなら、燭台やかがり火の人工的な光が溢れる神殿にあって、 人々の内にある闇を見つめながら、宣言されたことになります。

そしてもし、祭りの後にこの言葉を告げられたのなら、祭りの余韻が残り、寂しさが漂う一方で、 日常の営みが再開された神殿の庭で、宣言されたことになります。 どちらにしても、一時的な喜びに終わらない、敵意や空しさの闇にもかき消されない喜びが、 主イエスという光に従って生きる中にあるのだと、内なる目で真の光を見ることへと招いてくださったのです。

喜びが多く与えられる時も、無力さ、虚しさに苛まれる時も、十字架と復活によってもたらされた主の光は、私どものただ一つの拠り所であり続けるのです。 (2014年10月19日秋の伝道礼拝説教)