日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 54号

教会だより

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った・・・」
– ルカによる福音書 8章4~15節-

高井戸教会 牧師 七條 真明

主イエスは、以下のような「『種を蒔く人』のたとえ」を語られました。 ある人が、種蒔きに出かけて行く。ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥に食べられてしまう。 また、ある種は、石地に落ち、芽が出ても水分を取れずに枯れてしまいます。 さらに、茨の中に落ちる種もある。芽は出て成長もするけれども、周囲にある茨も一緒に伸びて覆いかぶさり、実を結ぶまでには至らない。 けれども、それら以外の種は良い土地に落ちた。生え出て成長し、やがて百倍の実を結ぶに至った。

主イエスは、このたとえがどんな意味を持つのかを明らかにしてくださいました。 「種は神の言葉である」(11節)。教会が行う伝道の業を、「種蒔き」にたとえることがあります。 聖書の御言葉を人々に語り、伝えていく。それは「神の言葉」を人々に向けて、その心に、魂に、種を蒔くようにするのだということです。
しかし、種が蒔かれるように、神の言葉が人々の心に蒔かれる時、すなわちそれが語られ聞かれる時、どうなるのか。 主イエスの説き明かしは続きます。道端に落ちるものとは、御言葉を聞くけれども、 悪魔が来て、その心から御言葉が奪い去られてしまう人のこと。 石地のものは、御言葉を聞いて、しばらくは信じても試練に遭うと身を引いてしまう人のこと。 また茨に落ちたものとは、人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、御言葉による実が熟するまでに至らない人を意味する。 そして、良い土地に落ちたものとは、立派な善い心で御言葉を聞き、守り、忍耐して実を結ぶ人たちだと主イエスは言われます
このたとえの意味を知る時、自分はまさに良い土地に落ちたものだと思う人などいないでしょう。 そして、残りのどれに自分は当たるのだろうかと考え始める。すると、ある時は道端のように簡単に御言葉を失い、 ある時は石地のように御言葉に対して頑なであり、また茨のような思いに満ちていたりする、 残りのどれにも当てはまる自分であることを見出すのです。

しかし、このたとえに込められた主イエスの御心はどこにあるのでしょうか。 それを本当に知るのは、このたとえに出て来る「種を蒔く人」に思いを集めるところにおいてであると思うのです。 この「種を蒔く人」は、最初から良い土地を見定めて種を蒔こうとはしません。 道端か、石地か、茨が生えているかにかかわらず、ありとあらゆるところに種を大胆に蒔くのです。

この「種を蒔く人」とは誰なのでしょう。やがて御言葉を伝えることになる教会だという見方も正しいでしょう。 しかし、その教会の主であり、このたとえを語られる主イエス・キリストご自身こそが、 「種を蒔く人」としてここにその姿を現しておられるのではないでしょうか。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、 一粒のままである。だが、死ねば、多くの 実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。「種を蒔く人」キリストは、ご自身の命を地に蒔くようにしてこの世に来られ、 十字架に死んでくださいました。それは、道端であり、石地であり、茨に満ちたような私たちさえ、 良い土地に変えられて、御言葉を実らせる者としてくださるためであったのです。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った・・・」。 傷ついた日本における種蒔き人として教会が担うべき使命を今改めて覚えます。