日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 55号

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「真実の対話 ― 命の言葉に生かされて」
– イザヤ書43章4節 マルコによる福音書 5章21節~34節)-

青山学院宗教部長 嶋田(しまだ) 順好(まさよし)

今日与えられた御言葉のなかに、一人の女性を見い出します。その人は、12年間も出血をわずらっている女でした。 旧約聖書のレビ記15章によれば、この時代のイスラエルでは、体から出血のある人は、皆、汚れた者と見なされるということが記されています。

しかも、その汚れはあたかも伝染病のように伝染していくと考えられていたのです。この事は何を意味していたでしょうか。 それは仲間の付き合いから完全に締め出され、一緒に語り合う者が見いだせないまま、孤独のなかにうち捨てられるということに他なりません。
しかし、この出血の止まらない女は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込」んだのです。 それはこの女にとって、まさに闇の中で一条の光を見いだすような経験でした。 彼女は、思います。この方のほかに望みはないと。きっとヴェールで顔を隠し、一見して正体がまわりの人から見破られないようにしながら、 彼女は、群衆のなかに紛れ込んだに違いありません。
今にも死にそうな娘が待つヤイロの家に急ぐ主イエスの歩みは早いのです。 しかも、24節によれば、この時は、「大勢の群衆もイエスに従い押し迫って来」ていました。 きっと、その人波にもまれ、何度も地面に叩きつけられるようなこともあったでしょう。 それでも歯を食いしばって立ち上がり、必死に主イエスの御後を追いかけます。

ついに蝋人形のように黄色く透き通った指を伸ばして、後ろからそっと主イエスの服に触れたのです。 するとどうでしょう。29節に女は「出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた」と記されています。

この時、女は、ただ背後から主イエスの服に触れただけなのです。 ここには呪術的、あまりに呪術的な癒しの出来事が記されています。 しかし、この出来事は、そこでは終わりません。さらに続くのです。 なぜなら、主イエスご自身が、断然足を止め、すぐ、群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのは誰か」と問われたからです。

ここで主イエスは、ただ、単に「触れた」事実を問題にしているのではありません。 そうではなくて、ただ一人、全身全霊を注ぎ出すようにひたむきに、切なる思いをもって「わたしの服に触れた人がいる。 その人は誰か」と問われたのです。それは主イエスが、肉体も心もボロボロとなり、 絶望ということしか望み得ない失われた者の回復を、真剣に求めておられるからです。

皆さんのなかには、この主イエスの振る舞いを、正直、不可解に思われる方もおられるのではないでしょうか。 なぜなら、ヤイロの娘の命を救うことの方が、12年間出血で苦しんだ女性を見いだすことより遙かに大事なことのように思われるからです。 しかし、たとい肉体の病が癒されたとしても、心の悲しみが、苦しみが、そして神との関わりが回復されなければ人間は生きてはいけないのです。 この女の12年間は、人間としての、また女としての希望をすべて奪っていきました。

それだけにその12年の歳月は、取り返しのつかないトラウマとなって彼女を苦しめ続けることになるのです。 だから主イエスはこの女を、断固として呪術的な世界から、真実の生ける信仰の世界、主イエスとの愛に満ちた、 生ける人格的な関係の世界へと引きずり出してしまわれるのです。

この主イエスの自分を求める問いかけに、女は、どんなに大きな恐れを覚えたことでしょう。 しかし、その問いかけには、厳しさのなかにも愛が満ちていました。 だから女は「震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」のです。 もちろん、それは5分や10分で終わるはずもありません。30分、いや、もっとかかったのかもしれません。

ここで、主イエスは「娘よ」(5:34)と呼びかけておられます。 そのことによって彼女が、今や、身も心も、主イエスに受け入れられ、 決して神の御前から失われてはならない神の家族の一員として呼びかけられたということです。 私たちは多くの言葉を語ります。しかし、それはしばしば人を傷つけ、殺す言葉でしかありません。 しかし、主イエスは、短くも決定的な命の言葉、愛の言葉を告げるのです。 この言葉を聞かされたとき、彼女の12年にわたる苦しみと悲しみは封印され、 彼女の心のなかに主イエスへの愛が、つきざる希望が、生ける信仰が湧いてきたに違いありません。

主イエスは、この女に告げたかったのです。私の目にあなたは価高く、貴い。 この世の誰があなたを見捨てようとも、父なる神は、私はあなたを見捨てはしないということを。 そしてあなたの人生は、それ自身で生きるに値する人生であることを。 確かに死んだも同然であった女が、主イエスとの語らいを通して生きる者へと変えられたのです。 (高井戸教会献堂50年記念伝道礼拝説教より