日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 40号

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「死から命へー主の復活の光を浴びて」
– ヨハネによる福音書 20章11~18節-

牧師 七條 真明

その日の朝、墓の前で涙を流している一人の女がおりました。名前はマリア。マグダラのマリアと呼ばれていた女です。マリアは、十字架にかけられて死なれた主イエスが葬られた墓の前に、一人立ち尽くして泣いていたのです。

彼女の目から涙がとめどなく溢れてくるのも無理はありませんでした。主イエスとの出会いが与えられる以前、七つの悪霊によって苦しめられていたという彼女が、その人生において背負わざるを得なかった苦しみと悲しみ、悲惨はたとえようもないほど大きなものであったからです。しかし、マリアは主イエスとの出会いを与えられました。今度こそ自分は新しく生きられる。今度こそ確かな人生、確かな歩みを自分の手に入れた。けれども、そのように思ったのも束の間、主イエスは犯罪人として裁かれ、十字架につけられて殺されてしまった。

マリアは思っていたことでしょう。今度こそ自分に確かな人生をもたらしてくれると思った主イエスとの出会い。その中に自分が見ていたものは、やはり儚い夢、幻に過ぎなかったのか。どれほど確かに手に入れたと思っても、結局は自分の手からこぼれ落ちて行く。死の力の前に、確かなものなど何もないのだ、と。

しかもなおマリアを深く悲しませたのは、主イエスの墓穴をふさいでいた大きな石が取りのけられ、主イエスのご遺体がなくなっていたことでした。主イエスのご遺体に油を塗り、もう一度自分の手できちんと埋葬をして差し上げようとの思いすら叶わなくなってしまったからです。しかし、そのようなマリアの悲しみを越えて、彼女が佇む墓の中で、既に神の御力による驚くべき出来事が起こっていたことを、マリアはまだ知りませんでした。

身をかがめて恐る恐る墓の中をのぞき込んでいたマリアが、ふと後ろを振り向くと、そこに一人の人が立っていました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。彼女は、その人物が園丁だと思って答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてくだい。わたしが、あの方を引き取ります」。

マリアにとって、もはや主イエスは「死んで遺体となった主イエス」でしかありませんでした。せめてご遺体だけでも、もう一度わたしの手元に引き取りたい。マリアの心が見ていたものは、死の力に翻弄され、のみ込まれてしまったように思える主イエスの姿でしかなかったのです。ただひたすら墓の中を、死の暗い世界をのぞき込んでいるようなマリアの思いが打ち破られたのは、園丁だと思い込んでいた人物が口にした言葉でした。「マリア」。彼女の名を親しく呼ぶ声がそこにはありました。

マリアの名を呼ばれたのは、園丁でも他の誰でもなく、まさにマリアが捜し求めていた主イエス・キリストご自身でした。死の世界に主イエスを捜そうとして墓の中をのぞき込んでいたマリアの背後に、復活なさり生きておられる主イエスが立っておられました。死に支配される方ではなく、死に打ち勝つ命を持った御方がそこにはおられました。

主の復活の光を浴びて、マリアは墓の前から立ち上がります。確かなものを自分の手でつかもうとして落胆し望みを失っていたマリアを、主の確かな御手が捕らえ続けておられました。その事実こそが人間を生かします。主の復活の光は、私たちのもとにも届いています。