日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 25号

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説教 「和解の喜び」
創世記33章1-20節  コリントの信徒への手紙Ⅱ5章16-21節

牧師 内藤 留幸

20年の時の流れのあと、卑劣な手段で犯した罪を心から悔い改めて謝ったヤコブを兄エサウは、なんの恨みも、わだかまりもなく恩讐を越えて赦し、二人が和解した出来事には、実に深い喜びが満ちていた。その時、ヤコブは『兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます』(33:10)といっている。おそらく実感だったのであろう。

自分が犯した罪を無条件で赦してくれる人の前では、その人の顔が神の御顔を見るように思えるのではないか。それほど、赦されるということは嬉しいことであり、他人の罪を赦すことは大変なのである。ヤコブは兄に対して犯した罪にいつまでもこだわり、思い悩んでいた。しかし兄エサウは当座は激しく怒り、弟ヤコブを殺そうとまで考えたが、彼が旅立った後は、弟から受けた仕打ちを次第に忘れていき、ヤコブが帰ってくることを知った時には、ただ懐かしい思いで胸がいっぱいになっていたようである。

人が犯す罪は、ひどい目に合わされたほうが傷つくだけでなく、場合によっては、罪を犯したほうが、もっと傷つくことがある。罪を犯したほうも、犯されたほうも、傷つくものなのである。ヤコブは、無条件で赦してくれた兄を見て「まるで神の御顔を見るようだ」と言ったのは決して、大げさではなかった。罪を赦すことも、罪が赦されることも、深いところでは、人間のレベルを越えて神と関わる出来事なのである。

新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章16節以下で、パウロは語っている。和解ということは、神が、み子イエス・キリストの十字架の恵みを通して実現してくださったところから始まると――。それ故、人の罪を赦すという行為は、何らかの意味で神の行為を代行しているのであり、それほど人の罪を赦すことは、尊いことであり、美しいことなのである。

二人の間に和解が成立した後、兄エサウはヤコブに一緒に暮らそうと親切に誘った。しかし、ヤコブはそれを感謝するが丁重に断わり、別々に住むことを選択した。彼はなぜそうしたのであろうか。彼は兄エサウを信頼していなかったのであろうか。そうではない。ヤコブは兄と一緒に生活したら、再び争いを起こしかねない自分自身の中にある性格を信頼していなかったのである。少し離れて生活をする道を選んだヤコブの選択には生活の知恵、信仰の知恵を見ることができるのではないか。

人間は一度悔い改めたからといって、直ちに性格ががらりと変わってしまうものではない。ヤコブは精一杯の悔い改めをして兄に謝った。しかし、それで彼の性格が一変してしまったわけではない。彼は悔い改めて兄と和解した後も、悔い改める前の性格を引きずりながら生きていくのである。

わたしたちは一度に完全に悔い改めをすることはできない。悔い改めて和解の喜びを味わった後、徐々によこしまな思いが取り除かれ、少しずつ変えられていく。わたしたちの信仰生活は一生涯、悔い改めを繰り返していくのである。そういう意味でパウロが語った言葉は真実なのである。
『わたしたちは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです』(フィリピ3:12)