日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 13号

教会だより

説教 「キリストの弟子の心構え」
ルカ福音書14章25-33節

牧師 内藤 留幸

主イエス・キリストはしばしば「私に従ってきなさい」と人々を招かれた。その時、主に従っていった人々について福音書は二つの事を興味深く語っている。一つは「すべてを捨てて主に従ったこと」(ルカ5:11、5:27)、もう一つは「神をほめたたえながら主に従ったこと」(ルカ18:43)である。主に従う信仰生活は確かに厳しさを伴う。けれども、同時に深い喜びに満たされ、ゆるがぬ希望に生き心から神をたたえる生活である。このことを私たち信仰者はしっかりと自覚しておかなければならない。

主は「誰でも私についてきたいと思うなら、父、母、妻、子、兄弟を捨て、自分の十字架を背負って従ってきなさい」。富める青年の物語(ルカ18:18~30)においても「あなたに欠けているものが一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。……それから私に従いなさい」と言われている。沢山の資産をもっていた青年は悲しみながら主のもとを去っていった。主のみ言葉どおりに出来なかったからである。

かつて文芸評論家の亀井勝一郎氏が「主キリストは、なぜ、『あなたのもっているものを神が喜ばれるように用いなさい』と言わないで『持っているものを皆売り払って貧しい人々に分けてやりなさい。それから私に従いなさい』と言われたのか。主キリストに従う道がそんなに厳しいのなら、自分のように弱い者、矛盾だらけの者はキリストの弟子にはなれない。自分はどうしたらよいのか。」と語っていた。私は青年の日に聞いた彼の真摯な言葉が今でも心に残っている。

それにしても、主キリストは何故このような厳しい言葉を語られたのか。その真意はどこにあるのであろうか。

主のみ心は「もし神への信仰を妨げるようなことがあるならば、その信仰(神への忠誠心)を貫くために、ある時は大切な家 族であっても捨て去らねばならない。神の民の心構えは第一に神の栄光をあらわすことであって、自分の幸せを第一にすることではない」ことを明らかにするところにあったのではないであろうか。

このような厳しい道を私たちは主の弟子として歩いていけるのであろうか。亀井氏ならずとも「誰がその任に耐えられるのか」
そう思わざるを得ない。

しかし感謝すべきことに、私たちは主の弟子として信仰生活をしている。それは生ける神が私たちに聖霊を注ぎ、真実に主に従う信仰と力とを下さったからである。私たちが主キリストを信じるとき、私たちは主にしっかりと結ばれる。すると私たちと主との間には「喜ばしい交換」(ルター)が起こる。主は私たちの中にある深い罪や醜い汚れなどをすべて引き受けて下さり、そのかわりに主のもっておられる真実な愛や生命や希望を私たちに惜しみなく与えて下さる。この主キリストのおかげで、何の取りえもない私たちは主の弟子として生きることができるのである。これこそ、いつくしみ深き主の恵みである。