日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 11号

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説教 「われらに日用の糧を今日も与え給え」
マタイ福音書6章11節

牧師 内藤 留幸

「われらに日用の糧を今日も与え給え」との祈りは、主イエスの時代のように貧しく、日毎の食物にも事欠く人たちが多いときには意味があるが、現代日本のような飽食の時代には、すでにその意味を失ってしまったのではないかという人たちがいる。

本当にそうであろうか。決してそうではない。主イエスは、「日用の糧を今日も与え給え」との祈りを飽食の時代であろうとなかろうと、いつの時代でも信仰者が心して祈るべき大切な祈りとして教えられた。この祈りは現代の私たちに何を問いかけているのであろうか。私には「あなたがたは何を食べて生きているのか」、「どうしてそんなに食べ飽きているのか」という天からの声が聞こえてくるように思われる。また、私たちは主が、主の祈りの中で教えられた『日用の糧』を感謝して食べているであろうか。そこで、この祈りが示す豊かな内容のうち、二、三のことを語ってみたい。

主がいわれた「日用の糧」という語は二通りに訳せる。一つは「日毎の食物」、もう一つは「明日の食物」である。「日毎の食物」とは私たちが生きていくのに必要な食糧のことである。「日用の糧を今日も与え給え」との祈りには、神の恵みによって大切な食物をいただかなければ、私たちは一日たりとも生きていけない無力な者であるとの告白がある。私たちが心からこの祈りを捧げるとき、神はマナを与えられたように、また主が五千人の空腹を満たされたように、必要なものを与えて養ってくださるのである。

「明日の糧」と訳す場合、この祈りは「私たちに必要な明日の糧をお与え下さい」となる。「明日の糧」とは将来の生活に必要となる食物という意味ではない。それは大いなる明日の食物、即ち終末において完成する神の国の食物、霊の生命を養う食物と
いってよい。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6:51)と主が言われたように、恵みによって与えられた内なる生命を養い育てる霊的な食物をさしている。従って、この祈りは救主キリストの生命を表わすパンとぶどう酒をいただく聖餐と深くかかわる祈りでもある。

聖餐はただパンを食べ、ぶどう酒を飲む食事ではない。キリストの深い愛を内に含む恵みあふれる霊的な食事である。食事で大
切なのは食べる『物』ではなく、食べる『事』である。何を食べるかよりは神の愛に支えられた霊的な喜びや平和につつまれて食事
をする『事』なのである。

M・ルターはこの祈りを拡大解釈して次のように言っている。「この祈りは、パンのもとになる小麦を作る農家の人たち、パンを作る職人たち、パンを家庭に運ぶ流通機関で働く人たちなど、私たちが生きていくのに必要な人たちのための祈りを全て含
んでいる。さらに、これらの人たちが安心して働くためには世界が平和でなくてはならない。それ故、この祈りは真の世界の平
和のために祈る広く深い祈りである。」

これは実に示唆に富んだ言葉である。今心して「われらの日用の糧を今日も与え給え」と祈ろう。