日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 2号

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説教 「聖夜の静けさの中」
ルカによる福音書2章8-20

牧師 内藤 留幸

(一) 神のみ子、イエス・キリストの誕生は夜の出来事でした。夜の出来事!!であるとはどのような意味をもっているのでしょうか。

夜にはアンビバレンツな意味《全く反対 の二つの意味》があります。夜は暗闇が私たちをおおう時です。光が 乏しく暗いために何も見えません。それ故、人は不安や恐れに襲われます。これはベツレヘムの野にいた羊飼いたちの経験でした。 私たちの人生にも、しばしば暗闇がおおい、 歩むべき道が見えなくなって途方に暮れることがあります。

夜の暗闇は、しばしば人の罪と結びつきます。罪の特徴の一つは隠すというところにあり、悪しきことを闇から闇に葬ろうとします。また、それは密室で行われ、責任回避や責任転嫁をしたりするのです。悲しいことですが、今の保守政治にそれが見られるのではないでしょうか。ペテロやユダが主イエスを裏切るという罪を犯したのも、実に夜であったのです。

しかしながら、夜には全く反対の意味も あります。夜は、昼の喧燥(さわがしさ)から私たちが解放される静かな時でもあります。私たちは夜の深い静けさの中で自己をとりもどし、平安や憩いが与えられるのです。夜の静けさは、ひとり静かに神様の前に出て祈ることができる時です。そしてその祈りの中で私たちは神様と出会い、平安を与えられるのです。あのニコデモが主イエスのもとに一人で出かけていったのも静かな夜であったし、ヤコブが神と出会ったベテルやヤボクの渡しでの出来事も夜でた。また東の博士たちがベツレヘムの馬小屋で救主イエス・キリストにめぐりあいひれ伏して拝み、宝物をささげたのも夜の静けさの中であったのです。神のみ子、救主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの出来事が夜であったという時の夜は、まさに聖夜(きよしこの夜)でした。この聖夜に、信仰をもって救主イエス・キリストのみ前にぬかづく者は、生けるまことの神様に出合うことがきるのです。そして天よりのみ声をはっきりと聞くことができるのです。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町 で、あなたがたのために救主がお生まれに なった。この方こそ主メシアである。 』……と。

天よりのみ声に耳を傾けるとき、神様はこんなに小さな私をもお見捨てにならずに顧みて下さるという慈しみの事実を心深く 知らされ、心の奥深くにまで聖なる喜びが満ち溢れ、揺るぎない平安が広がっていくのです。

(二) すべての民に与えられる大きな喜びをい ただいた者には、更に素晴らしい聖らかな天使の歌声が聞こえてきます。 『いと高きところには栄光、神にあれ 地は平和、御心に適う人にあれ。』 ……と。

この聖らかな讃美は信じる者に与えられる恵みの事実の宣言でもあります。まさに、聖夜には、静かではあるが救いの喜びが溢れているのです。

この『天に栄光、地に平和』という讃美の歌声をきく時、私の脳裏には、かつて戦後暗い世相の中で、感銘を受けた『ドイツ戦没学生の手記』の文章が浮んできます。 それは次のようなものでした。

『塹壕の中に身を伏せ、決死の覚悟で敵と相対して銃を構えている毎日。それがクリスマスの夜になると、つい先刻まで殺し合っていたのが嘘のように、戦いが止み、銃声が止まる。そして戦場にも深い静けさが戻ってくる。……今まで、憎しみや敵意に捉われていた兵士たちの心の中に、ふるかなクリスマスの平和や喜びが湧き出る泉のように溢れてくるのである。……神のみ子、救主イエス・キリストを心の中に迎える時、人間同志が殺しあうこと、憎しみ合うことの空しさや愚かさを思い知らされる。そして、お互に許し合おう、重荷を負い合 い、助けあっていこうというほのぼのとした思いに満たされる。すると思わず、クリスマス・カロルが口をついて出てくるのです。そこで本当に不思議なことに敵の塹壕からもクリスマスを祝うカロルが聞こえてくる、その時、思わずクリスマスの恵みに感謝し、神を崇めた。 』というのであります。

クリスマスの出来事はまさにインマヌエル(神われわれと共にいます)の出来事な のです。クリスマスは救いを与えられる神様が私たちといつも共にいて下さり世の終りまで私たちを守り、導いて下さるという事実を明らかに示しているのです。私たちは、今こそ、心を開き、思いを新たにして救主キリストを自らのうちに迎え、聖なる喜びに満たされ、深い平安を与えられて、 共にまことの神様を讃美したいと思います。また、聖なる喜びと深い平安が全世界の人々に広がっていくように祈りたいものと思います。